2005.8.14.の説教より
.「金持ちと天の国 」
マタイによる福音書 19章16−30節
このところは、言うまでもなく、「富める青年」の話とされているところですが、多くの場合、こういう読み方がなされているのではないでしょうか。「お金持ちや財産を沢山持っている人は天国に入るのは難しいが、自分のような者は、それほどのお金や財産を持っていないから問題ない。天国に入る上で問題となることは少ない。」とであります。しかし、本当に、そうなのでしょうか。もし、本当に、そうなら、お金持ちの人は天国に入ることはできないのですから、少なくとも、らくだが針の穴を通るよりも難しいのですから、不可能と言っても良いのですから、教会に来ても仕方がないこと、神様を信じても仕方がないこととなるのではないでしょうか。はたして、そうなのでしょうか。
また、どれだけのお金を持っていれば、どれだけの財産を持っていれば、お金持ちということに、たくさんの財産を持っているということになるのでしょうか。当然のことながら、私たちが、自分で自分のことを、お金持ちと思っているか、それとも、お金持ちではないと思っているか、といったことなどはまったくそこでは問題外のこととなるわけです。誰かさんよりも収入が多いとか、少ないといったことを持ち出してきても意味がないわけです。神様の御前においては、私たちの罪深さを他の人の罪深さと比較しても、五十歩百歩という言葉がありますように、同じく罪深いことには変わりがないように、お金持ちかどうか、財産を持っているかどうか、他の人と比較しても何にもならないわけです。私たちの間では、10万円多く貰っているか、20万円多く貰っているか、ということは、大きな問題となることですが、神様の御前においては、そうしたことというのは、それほどの問題とはならないのではないでしょうか。
先週の月曜日・火曜日とキリスト教保育連盟の研修会に参加して、日本キリスト教協議会議長の鈴木伶子氏から、「みんなで平和を」という題での講演を聞く機会がありましたが、その講演の中で、「みなさんは、自分はお金持ちではない、と思っているかもしれませんが、世界の中でということからしますと、みなさんはたいへんなお金持ちなんですよ。」ということを言っておられました。かつては、1ドル360円という時代がありましたが、今では、100円そこそですので、今まででの三分の一のお金で外国の物が買えるようになった分、私たちはお金持ちになったとも言えるわけです。実感として感ずるの難しいのではないかと思われますが、百円均一で、こんなものまで百円でと思うような物まで買えるというのは、まさに、1ドル100円そこそことなっていることの恩恵なのかもしれません。多くが中国その他の国の製品となわけですから。また、鈴木伶子氏は、こんなことも言っておられました。「私たちの国が圧倒的なお金持ちとなっているということは、その分、どこかの国の人を確実に貧しくしているのではないでしょうか。」そこには、国と国との難しい経済問題がありますので、難しいなあとの思いを抱かざるを得ませんが、私たちの身の回りに、様々な物が溢れている現実を考えますとき、お金持ちではない、それほどの財産も持ってはいないと思っていたとしても、本当は、お金持ちということに、財産持ちということになるのかもしれないわけです。もし、そうだとするなら、私たち一人ひとりも、この一人の金持ちのように、神の国に入るのが難しい者と、者たちということになってしまうのではないでしょうか。
では、どうして、お金持ちが、多くの財産を持っている者が、神の国に入るのが難しいということになるのでしょうか。不可能だということになるのでしょうか。おそらくは、神様以外にも、頼ることができるものをいろいろと持っているからかもしれません。お金や地位、その他のものを頼ることができるものをです。どのような人でも、共通して言えることではないかと思われますが、私たちが、心から一生懸命に神様を求める時、祈る時と言いますのは、満たされている時よりは、ある程度、問題を抱えている時、困ったことに直面している時となるのではないでしょうか。そのためか、「神様を信じている、信仰を持っている」ということを、私たちが、誰かに話したとしますと、「何か悩みでもあったのですか」と言われてしまうこともあるわけです。実際に、そのようなことを言われた経験をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。また、このような言葉を、聞くこともあるのではないでしょうか。「特に、今は、悩みがないから、満たされているから、神様を信じないが、そのうち、困ったことでもあったら、神様を信じる。」というような言葉をです。そうしたことが、お金持ちが、多くの財産を持っている者が、神の国に入るのが難しいということになる、不可能だということになる理由として考えられるわけです。
しかし、もし、そういうことが理由で、神の国に入るのが難しい、不可能だということになる、決まるとするなら、おそらくは、私たちの誰もが神の国に入るのが難しい者、不可能な者となってしまうのではないでしょうか。信仰を持っている私たちであっても、そういつもいつも神様のことだけを考え、神様にのみ頼って生活しているかと言うと、なかなかそのようにはできないことも多いのではないかと思われるのです。そうかといって、貧しければ、多くの財産を持っていなければ、神様のことだけを考え、神様にのみ頼って生活するものとなるのかというと、そうはならない場合も多いのではないでしょうか。思い煩うことばかりとなり、神様への信仰がどこかに行ってしまう場合もあるのではないでしょうか。そのようにお金や財産があればあったなりに駄目だというだけでなく、お金や財産がなければないなりに駄目なところがあるのが、そうそう単純ではないところを持っているのが、私たちの現実ではないかと考えられるわけです。
また、そうした私たちの現実を、イエス様がご存じないわけがありませんし、単なる教訓的なことをイエス様が語られるはずはないと考えられますので、お金や財産があるかどうかで神の国に入れるかどうかが決まるということよりも、自分ではお金や財産を持っていないと思っているとしても、如何にどれだけ多くのものに頼って、それを頼りにして生きているかを気づかせようとされるのが、イエス様が「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われたことの目的だったのではないかと思われるのです。そのように、私たちにとって問題なのは、お金や財産があるかどうかということよりも、お金や財産、その他のものに頼るようにしてしか生きることができない私たちの現実を受け止め、そういう現実を引きずるようにしてしか、言ってみれば、信仰的とは言い難い信仰をもってしか信仰生活さえもまっとうできない私たちでも、イエス様にどういう形であれ、どこまでもくっついて行くならば、神の国に入れる者とされることを語られるために、一人のお金持ちの人とのやり取りを用いて弟子たちに語られたのではないかと考えられるのです。また、そうだからこそ、イエス様は、21節で、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と語られ、弟子たちの「それでは、だれが救われるのだろうか」との言葉に、26節ですが、イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われたのではないかと考えられるのです。「持ち物を売り払い、貧しい人々に施す」ことなどできないからです。あくまでも、そうした自分の現実に気づかせるために、そのような無理な要求をされたのではないかと思われるのです。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」とのイエス様の言葉に、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」と言っていることからしますと、おそらく、彼には自信があったのではないでしょうか。そこまで、ちゃんとした生活をしているならば、もう後は何もしなくてもと言っていただく自信をです。そういう意味では、自分自身の現実というのは、どこまでも、神様の御前に誇れるようなものはない、自分の力では救われないものであることを気づくだけで良かったのではないでしょうか。「神様には何でもできる」からです。このお金持ちの人は、イエス様の前から去って行きましたが、イエス様が言われたことができなくても、そこに止まっていれば良かったのかもしれません。なんと言っても、イエス様には何でもできるからです。